幼少期
1984年山形県飯豊町に長男として生まれました。
今ではまったく想像できませんが、5才までは痩せていて女子みたいにかわいい子供だったそうです(笑)
両親と祖母、妹、弟の6人家族です。
両親とも教師でさぞ厳しい家庭かと思われがちですが子供の意見を尊重する教育方針のようで、実際は自由奔放に育ちました。
忘れているだけかもしれませんが、両親から怒られたという記憶があまりありません。
中学、高校時代(部活時代)
中学、高校時代は部活動の記憶しかありません。
吹奏楽部でトロンボーンを担当してました。
もともと音楽が好きとか楽器をやりたいという思いは無かったんですが、中学の入学式の時の吹奏楽部の演奏に感動したのがきっかけで、楽譜も読めないのに入部しました。
どうしてトロンボーンかというと吹奏楽あるあるですが、トランペットを希望してたんですが人数合わせでトロンボーンになりました。
文化部なのに厳しい部活で朝練、夜練、365日ほぼ毎日楽器をやり続けました。
部活動を通して多くを学びました、音楽のすばらしさはもちろん、チームワークの難しさと素晴らしさ、継続は力なり、音感もリズム感もない僕ですがある程度の演奏はできるようになりました。
歯科医になったきっかけ
歯科医師という職業を意識したのは中学3年の高校受験の時だったと思います。
進路を考えたときに、両親が教師なので当然というか教師を目指そうと思っていました。
それを父親に相談したら「教師も良いが医療系の職業もこれからはいいんじゃないか」と言われました。
そのとき以前僕が小学校の時に祖母から父親が学生に時に医師を目指していたと聞いたことを思い出しました。
父親が自分の夢を託してくれているようで嬉しかったのを覚えています。
そこから高校3年の受験の時に医療系の学部の中から自分で開業すれば院長として組織のトップにたてる!手が割と器用な方だったので自分には向いているのではないか?なんていうぼんやりした理由で歯学部を選びました。
やりたい事にのめりこんだ大学時代
無事福島県の歯科大学に合格した僕は勉強もそこそこに音楽活動にさらにのめり込みます。
大学には吹奏楽部が無く、ジャズ研究会に所属して演奏活動を行っていました。
それだけでは飽き足らず、市民楽団で社会人に混ざって演奏活動やバンドを組んでライブハウスやジャズバーなどで演奏させてもらっていました。
初めての挫折
そんな大学時代を過ごした僕ですがさすがに6年生にもなると国家試験のための勉強を開始します。
大学時代の成績は中の上くらいでした、全体の6割が合格する国家試験なのでまー大丈夫だろうと思っていましたが、結果は不合格。
人生初めての挫折でした。
これほど落ち込んだことは今までの人生の中でも初めてです。
そこからは楽器を封印して勉強に励みました。
これほど勉強したのも人生で初めての経験です。
次の年の国家試験は無事合格。
これほどうれしかった日も今まで無かったです。
この1年間は僕にとって最低から最高になった、初めてづくしの年でした。
研修医 地震から就職
合格後母校の奥羽大で1年間研修医をしました。
歯科医師としてのスタートの年でこれからどんどん学んでいこうと思っていた矢先、東日本大震災が起こりました。
大学は福島県郡山市にありました。
震度6強の強い揺れと津波と原発問題。
歯科医師、医療従事者として何もできなくて無力感を感じました。
医療従事者として成長したいと心から思いました。
千葉県柏市の歯科医院に就職して、医院長、先輩Dr、スタッフから助けてもらいながら、歯科医師としての技術を多く学びました。
とても忙しい日々でしたが充実した2年間を過ごしました。
地元での開業をめざす
山形県に戻り山形市のタクヤデンタルクリニックに就職しました。
それが転機になりました。
こういう医院を創ろう!こんなスタッフと仕事がしたい。
そう思える職場でした。
医院長の佐々木琢哉氏のもと歯科医師の技術だけではなく、歯科医師、医療者としての在り方、社会人としての在り方。
一人の人として大きく成長することができました。
歯科医師としてこうありたいと考え実行に移すことが出来たのは佐々木医院長に出会えたからたと思います。
いざ開業へ
多くの方たちのお力添えがあり山形県米沢市に米沢クローバー歯科クリニックをオープンすることができました。
本当に感謝しかありません。
当医院の理念は「向上心と成長、仲間への感謝を持って最高の医療を提供し、地域の健康増進に貢献する」です。
感謝の気持ちを大切に患者さんを大切に寄り添う医院でありたいと考えています。
まだまだ発展途上の医院ではありますが、患者さんを第一に考える気持ちは負けません。
これからも米沢クローバー歯科クリニックをよろしくお願いいたします。